『就職活動戦線スタート…』

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時をさかのぼること10数年前、おいらも大学3年生の時に就活を始めた。

当時は氷河期と言われる時期の真っ只中で、就職協定がなくなり企業もいつから始めるのか、と言うことでかなりバタバタした年であった。そんな状況を見ながらおいらは、大学院に進学しようと決めていたのであった。しかしながら二浪もしているお前を大学院にやる金はない、と言うことで急遽就活を始めることになった。

元々やりたいことがあってICUに行った。

正確に言えば師事したい教授が東大からICUに移っていた。この先生の元で勉強をと言うことでICUを選んだ。実際卒論の指導教官になっていただき、我々の卒業と同時にICUを退官される、と言う最後の世代であった。当時はこの東大法学部名誉教授の奥平先生に色々と指示を請い、東大の社会情報研究所の大学院に行くと勝手に決めていた。しかしながら上記の理由で就職をすることに。

大学生活が充実し過ぎていて、自分のやりたいことがゴチャマンとあった。あり過ぎて困るくらいあった。つまり明確化されていなかった訳だ。足元見据えて、きっちり整理をしよう、と。その整理をして行く過程で様々な方にお世話になりこんにちがあると言える。今はバンコクにお住まいのICUの先輩。親父の同級生でH社にいらした方。120人くらいOB訪問をしたが、殊更このお二人にはお世話になったと言える。いやもうお世話になったどころではない。何度相談をし、何度怒られ、何度添削をしていただいたことか…。場数を踏めばそれで良い、と言うことはなく、何度添削をしていただいてもダメなものはダメだった。これが続いたがメゲテいる場合ではないので、本当に迷惑にも当時の最先端メディアである「FAX」を利用して大先輩に自己PRと志望動機を何度も何度も添削をしていただいた。そのたびに電話をオフィスに掛け、当時は田町にあった社屋へ足を運びよく言えば叱咤激励。悪く言えば添削のダメだしをしていただいた。いやもうこんなことしていただけるとは思ってもおらず、勝手に学生の特権と言うことでホントにご迷惑さ加減を考えずお願いをしていた。学生時分、その時は代理店志望だったのではあるが、それはやりたいことに一番近いと思っただけの話。アプローチはいくつかあると思っていたので特に代理店でなければならない理由はなかったが、どう考えても最も近道だとその当時は思って必死に色々と考えていた。サッカーのクラブの経営をするためにはどこの会社から転職を重ねていけば良いか、そればかり考えていた。経営者としてクラブに携わりたくともいきなり経営コンサルに行くのはちと違う。途中迄ACとかを受けていたがここじゃないな、とか色々と考えて本当にどこで自分のやりたいことがやれるようになるか、を考えた。

そんなある日いつものように添削していただこうと思いFAXをし、暫くしてから電話を掛ける、と言うルールに基づき連絡をした。いつもならばいついつに田町においで、と言う約束をいただくことになっていた。

ところが、「もう来んでよし」と言う一言。完全に見捨てられたかな、と思い理由を問うと、「この自己PRなら落ちることはない。自信を持って面接に挑め」と言われた。何度となくリバイズをし、推敲し、FAXを送り、と言うことを行いつつ、色々なOBに会い情報をいただくと共にご飯を食べさせて頂き、こんな楽しい活動はないなぁ、と思っていた。多分おいらがDやHに行けなかった、いや正確に言うと落ちたのは、その先インタビュースクリプトを熟考しなかったからかも知れない。D社で爆弾踏んだ。

ドカーン…。

その後商社やら通信やら金融やらこちらから辞めたものを除かなくとも両手では足りないくらい内定をもらったが、一番行きたかったところで内定を貰えなかった悔しさは後まで残ったものだ。大学でも東大に行けなかったことが悔しくて仕方無かったが、就職活動なんて大学受験と違って全く公平性など無いわけだからやったもの勝ちでもない。出自などはコントロールできる訳はないのだから、出来ること精一杯やってNo.1の希望のところで将来の夢へ近付くぜ!と思っていたのだが、行ったのは事前検討の中で幅広くITインフラのことが学べプロジェクトマネージメントが学べる会社かな、と思っていたところ。事前にどう言う仕事してもらうよ、と言われていたからね、内定取る段階で。ま、当時の就職ランキングではNo.1ではあったが、回り道だったのか、はたまた橋頭保を築けていたのか…。まだまだ30代。やるべきことをやった後に悔恨の念を払拭すればよし。そのうち、悔いなど、わっはっは、と笑える状態になっていたいものだ。

悔いなく就職活動をしていってください、若者よ。

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Posted by xyzken